松代の歴史
過去から現代への奇跡、
激動の歴史を辿る
01
古代
⽔も緑も豊富な松代には、古くから⼈が暮らしていました。⼤室や東条には古墳群が点在しています。特に5世紀から8世紀にかけて築造された「大室古墳群」には、約500基もの古墳が点在しています。また松代町周辺にはかつて「英多荘(あがたしょう)」と呼ばれる近衛家の荘園があり、鎌倉時代(12世紀後半)にはすでに町が存在していました。「東条」「⻄条」といった地名は、荘園時代の名残として今⽇に伝わっています。
松代町には古代から近代まで、さまざまな時代の歴史文化遺産が集積しています。古くは5世紀から8世紀頃に築造された古墳群が残り、戦国時代には川中島の戦いの舞台にもなりました。
江戸時代には松代藩が置かれ、真田十万石の城下町として栄えます。古き歴史文化が色づく町・信州松代でゆったりとした時間の流れに浸りませんか?
過去から現代への奇跡、
激動の歴史を辿る
01
⽔も緑も豊富な松代には、古くから⼈が暮らしていました。⼤室や東条には古墳群が点在しています。特に5世紀から8世紀にかけて築造された「大室古墳群」には、約500基もの古墳が点在しています。また松代町周辺にはかつて「英多荘(あがたしょう)」と呼ばれる近衛家の荘園があり、鎌倉時代(12世紀後半)にはすでに町が存在していました。「東条」「⻄条」といった地名は、荘園時代の名残として今⽇に伝わっています。
02
戦国時代、松代町は川中島合戦の舞台となりました。武⽥信⽞が上杉謙信との戦いに備え、⼭本勘助に海津城(現在の松代城)の縄張り(城の基礎設計)をさせたといわれます。その後、武⽥-織⽥-上杉-豊⾂-徳川と⽀配者が変わりましたが、徳川家康が天下を取った江⼾時代、上⽥から松代に移封された真⽥信之が松代城を中⼼に本格的な都市計画を⾏い、今⽇の松代の基礎を築きました。松代城は「⽇本の名城100選」に指定されています。
03
幕末には松代藩出⾝の佐久間象⼭が尊王開国を唱え、新しい時代の先駆けとなりました。明治期に⼊ると、松代で⽇本初のフランス式機械製糸場・六⼯社が創業されます。品質の良い松代製糸が海外にまで輸出され、松代の産業振興に⼤いに貢献しました。明治時代から⼤正時代にかけ、松代町清野出⾝の松井須磨⼦が⽇本初の本格的な近代舞台⼥優として活躍。太平洋戦争末期には⼤本営を移設するために、松代周辺の⼭に地下壕が掘られました。
04
松代町は昭和41年(1966年)に長野市へと合併されました。平成5年(1993年)の高速道長野インター誘致をきっかけに、住⺠によるまちづくりの機運が⾼まりました。⾏政の後押しを得て平成16年(2004年)には築城444年⽬にして松代城を復元。同時に「松代イヤー」として長野市を挙げて⼤々的に「遊学城下町松代、エコール・ド・まつしろ」キャンペーンを開催。松代ブランドの確⽴がはかられるとともに、年間80万⼈の観光客が訪れ、松代は「観光のまち」として全国に知られるようになりました。
松代城は松代藩初代藩主真田信之をはじめ、松代藩の歴代藩主の居城でした。元々は海津城と呼ばれ、武田信玄に命じられて山本勘助が築城したとされています。築城年代は不明ですが、文献に確認できるのが永禄3年(1560年)ですので、この頃には築城されていたと推測できます。
真田宝物館は旧松代藩主真田家から寄贈された家宝の武具、調度品、文書、美術品などを所蔵する資料館です。重要文化財の「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、大名家ならではの興味深い史料が数多く展示されています。
松代藩八代藩主真田幸貫は文武の奨励を目的に、嘉永4年(1851年)に松代藩の藩校である文武学校の建設準備にとりかかり、火事などに見舞われながらも安政2年(1855年)に開校しました。現在残る建物群は開校当時の姿をほぼ伝えており、これは全国的にみてもまれです。
佐久間象山を祀り、全国の教育関係者の尽力により昭和13年(1938年)に創建された神社。大正2年(1913年)象山殉難50年祭を契栽に元審院長横田秀雄の主唱で計画が進められ地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力で県社として創建されました。
江戸時代末期に松代藩九代藩主真田幸教が、義母お貞の方の住居として建てたもの。全国でも少ない御殿建築の建築物です。
松代藩八代藩主真田幸貫は文武の奨励を目的に、安政2年(1855年)に開校しました。現在残る建物群は開校当時の姿をほぼ伝えています。
松代藩の中級武士 白井家の表門を移築復元したもの。白井発平は元方御金奉行で御宮奉行などを勤めました。
旧横田家は禄高150石の中級武士で郡奉行などをつとめた家です。「富岡日記」で知られる和田英をはじめとする秀才を多く生んだ家です。
山寺家は松代藩の中級武士でした。江戸時代末期には山寺常山を輩出し鎌原桐山、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。
旧樋口家は江戸時代に藩の目付役などを務めた真田家の家臣でした。主屋、土蔵、長屋の3棟は長野市の文化財に指定されています。
前島家は上田・松代で代々真田家に仕えており、禄高は江戸中期に300石、幕末には200石でした。現在は敷地内に主屋、土蔵、三社、庭園が現存しています。
旧松代藩鐘楼は松代藩初代藩主真田信之が松代に入封直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓の役割を兼ねていました。
江戸末期から昭和初期まで質屋等を営んでいた商家・金箱家の旧宅です。豊かな商家の暮らしを伝える貴重な屋敷です。
わたしたちのふるさと松代からは、日本近代の発展に尽くした数多くの人物が育っています。2010松代イヤー実行委員会では、NPO法人夢空間の協力を得て、松代の風土を愛し、新たな世界を切り拓いていった先人たちをイラスト画によって紹介。その足跡を尋ね、学びながら、新たな明日を創造していくための企画を実施。今年度はあらたに5人の先人たちを顕彰する案内看板を作成し、それぞれのゆかりの郷地に立てさせていたださました。今後さらに多くの先人たちを発掘顕彰し、まちづくり、人づくりのために役立たせていきたいと考えています。
2010松代イヤー実行委員会